はじめに
企業が「政治的中立」を保つことが許されない時代が到来しています。ウクライナ情勢以降、欧州を中心に加速したこの潮流は、今や日本企業にとっても無視できない経営課題となりました。
本稿では、この変化をいち早く捉えた2023年の『英ファイナンシャル・タイムズ』紙の論考を紐解きながら、現代の企業に不可欠な「地政学的責任」と、具体的なリスクマネジメントの手法について解説します。
「年次報告書の政治化」が示唆したもの
かつて2023年7月、英国『ファイナンシャル・タイムズ』紙に、「年次報告書が急速に政治的論文と化している」という衝撃的な論考が掲載されました[1]。この論考は、複数の欧州企業が発表した2022年の年次報告書において、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる政治的立場を明らかにする傾向がみられ、それらの企業が、従来、企業の常識であった「政治的中立」から逸脱し、その政治的立場を明確にしつつある姿勢にあることを指摘しています。
この論考には、執筆者である同紙編集者のペギー・ホリンジャー(Peggy Hollinger)氏の個人的な状況認識――近年、企業経営をめぐる説明責任の範囲が拡大し、企業として、極めて公共性の高い政治的問題について立場を明確にする社会的責任が問われるようになった――が反映されています。こうした状況認識に対しては、たとえば、「企業がある政治的問題に対して立場を明確にする、あるいはしないという選択は、その企業の中長期的な価値向上に向けた戦略的判断の結果に過ぎず、特定の時代的要請に応えるものではない」といった反論も十分に考えられます。
その意味で、上記の論考は、あくまで仮説の域を超えるものではありませんが、本稿では、この論考が示す状況認識を一つの注目すべき問題提起として捉えつつ、その提示する地政学リスク時代の「企業の社会的責任」という観点から、我が国企業に求められる地政学上のリスクマネジメントの要点について検討を加えたいと思います。
拡大する「企業の社会的責任」の範囲
「企業の社会的責任(Corporate Social Responsibility/CSR)」という考え方については、今日、広く知られていることから、ここでは詳細な説明を控え、国連工業開発機関(UNIDO)による「企業が、事業運営やステークホルダーとの関わりを、社会や環境への配慮と統合する経営概念」[1]との定義を紹介するにとどめたいと思います。このUNIDOの定義のポイントは、CSRが、企業が株主や他のステークホルダーの期待に応えつつ、経済、環境、社会的要請のバランスを達成するための「戦略的な企業経営(a strategic business management)」を意味しており、それゆえ「慈善、後援あるいは博愛的活動(charity, sponsorships or philanthropy)」とは区別される必要がある、という点です。
CSRの思想の起源は19世紀末にさかのぼるとされますが、経営理論として体系化されたのは、「CSRの父」として知られる米国の経済学者でグリンネル大学学長・ハワード・ボーエン(Howard Bowen)の著作『ビジネスマンの社会的責任(Social Responsibilities of the Businessman)』(1953年)によるとされます。CSRの考え方は1970年代に米国で定着し、その後、時代とともに、その意味内容が段階的に進化してきました。1980年代には主として労働者の権利、汚染、廃棄物管理などへの対応が主眼でしたが、1990年代には、環境や気候変動など企業の地域社会だけではなく、世界全体への影響が考慮されるようになりました。
21世紀にはいると、CSRをめぐっては、男女平等から海洋生物の保護などこれまで以上に広範な領域を対象とする流れが生じました。企業はいまやCSRへの積極的な関与なしに、企業ブランドや社会的信頼性の向上、リスクとサプライチェーン管理の最適化、経営効率の向上および収益の増加などを達成することは困難になりつつあるといえます。すなわち、CSRは社会的善の達成のみならず企業価値を維持あるいは向上させるための企業活動の中核的指針を意味すると理解されます。
[1] https://www.unido.org/our-focus/advancing-economic-competitiveness/competitive-trade-capacities-and-corporate-responsibility/corporate-social-responsibility-market-integration/what-csr
地政学リスク時代におけるCSR
現在は地政学リスクの時代と呼ばれることが増えてきました。ウェブ上で「地政学リスク(日)/geopolitical risk(英)/地缘政治风险(中)/геополитический риск(露)」など、さまざまな言語で検索すると、おびただしい数の記事が抽出されます。「地政学(geopolitics/Geopolitik)」とは、本来的には「大陸系」「英米系」の二つの潮流を持つ、19世紀以来の地理的な世界認識の枠組みとして整理されるものですが[1]、昨今の一般的な用法としては、そうした世界認識の枠組みとは関係なく、漠然と「ある特定の国や地域が抱える政治的・軍事的な緊張の高まり、およびその背景となる地理的な状況」を意味し、また地政学リスクとは、「そうした政治的・軍事的緊張が、特定の国・地域の経済、市場および個々の企業活動にもたらす負の影響全般」を意味する傾向にあるようです。本稿では、こうした昨今の一般的用法を踏まえることとします。
ところで、こうした地政学リスクの時代においてCSRはどのような意味内容を持つのでしょうか。たとえば、冒頭に紹介した『ファイナンシャル・タイムズ』紙の論考では、仏ビジネススクールINSEAD(欧州経営大学院)のカイサ・スネルマン准教授による「1980年代や90年代には、企業の社会的責任と言えば、スタジアム建設への寄付や、スポーツチームの支援だった」、「今では、それはCEOとして社会問題について声を上げることを意味する」との指摘を引用しています。
既述のとおり、同論考は、欧州企業が発表した2022年の年次報告書において、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる政治的立場を明らかにする動きに着目しています。たとえば、当該紛争に一切言及をしなかった(意図的に無視した)スイスのある保険会社については「意外(unexpected)」と捉える一方、「ウクライナ人と西側諸国に対し『ロシアのクマの背中を折る』よう促し、この侵略国を『邪悪で信頼できない勢力』と形容」することで当該紛争に対する立場を明確にしたスウェーデンのあるオンライン銀行をはじめ、多くの欧州企業が年次報告書において感情的な表現を用いたことは「理解できる(understandable)」と評価しています。
このスウェーデンのオンライン銀行の事例は、従来、政治的な偏向を避けることを是としてきた企業の平均的な姿勢からすると、大きな逸脱といえます。しかしながら、同論考でも紹介されているとおり、たとえば欧州最大の証券取引所グループ・ユーロネクストは「欧州政治に関して、今は通常の企業外交をやっている時ではない」と判断しており、同社の会長兼CEOのステファン・ブジュナ氏は、年次報告書の中で、ロシアのウクライナ侵攻をめぐり「欧州がさらに緊密に協力し、欧州連合を強化する必要性を非常に明確に示した」と強調しているとされます。
こうした欧州企業の年次報告書の「政治化」が、いわば「言葉」による意思表明であるとすれば、ロシアのウクライナ侵攻をきっかけに、通算1000社以上のグローバル企業がロシアから撤退した事実は、グローバル企業の実際の「行動」による意思表明と理解できます。グローバル企業のロシア撤退について、英国王立国際問題研究所(チャタムハウス)のベネット・フリーマン研究員は、「レピュテーションとオペレーションの双方の要因が大規模な撤退を招いた。企業はプーチン体制からの離脱を選択することによりレピュテーションの低下を回避し、また輸送ルートとサプライチェーンが寸断されたことはオペレーションに影響を与えた」と指摘しています[2]。
年次報告書においてロシアのウクライナ侵攻に関する政治的立場を明確にした欧州企業、そしてロシアからの撤退を決断し実行に移したグローバル企業は、いずれも地政学リスク時代の「企業の社会的責任」――株主や他のステークホルダーの期待に応えつつ、経済、環境、社会的要請のバランスを達成するための戦略的な企業経営――を意識した行動の具体的な実例として理解することができます。
[1] こうした伝統的な「地政学」については、さしあたり以下が参考になります。篠田英朗『戦争の地政学』(講談社現代新書、2023年)。
[2] https://www.chathamhouse.org/2022/07/geopolitical-corporate-responsibility-can-drive-change
「企業の地政学的責任」の時代
本稿では、このような地政学リスク時代の「企業の社会的責任」を、試みに「企業の地政学的責任(Corporate Geopolitical Responsibility/CGR)」と表現してみたいと思います。「企業の地政学的責任」という用語は英語圏でもまだ一般的には普及していませんが、既述のチャタムハウスのベネット・フリーマン氏がその論考のタイトルに用いているほか、いくつかの使用例が確認されます。
フリーマン氏がこの用語に籠めた問題意識は明確です。
経済発展の原動力である貿易・投資、起業家精神、イノベーションは、国内外の国家による予測可能で合理的な行動に依存している。個々の企業や業界全体は、この秩序の安定性や正当性さえもが厳しい試練にさらされている現在、それを維持することに利害関係を共有している。[1]
企業のグローバルな経済活動をそもそも可能としている国家間の安定した秩序を維持することが、企業にとって最大の関心事項であるはずだ、というこのフリーマン氏の問題意識は、米国務次官補(民主主義・人権・労働担当)など米国大統領府での要職を歴任した同氏のキャリアを反映した理念的な性格が強いものといえます。
こうしたフリーマン氏の理念的な問題意識を、具体的な企業の行動指針としてどのように捉えるべきかについては、さまざまな議論の方向性が考えられますが、本稿が検討を加える「企業の地政学的責任」という視点に即して考えれば、「国家間の安定した秩序を破壊ないしは毀損する行動をとる国家ないしは事象に対して、企業が明確な政治的立場を示さない場合、その企業は深刻なレピュテーション・リスクを抱えることとなる」というものになるでしょう。
この理解にもとづけば、広義の国際秩序の毀損を行う国で事業を展開する企業に対して、グローバルな市民社会の監視の目が年々厳しくなりつつある中、そうした不用意な企業活動によるレピュテーション被害を最小化するためには、 地政学リスク時代の「企業の社会的責任」、すなわち「企業の地政学的責任」を念頭に、株主や他のステークホルダーの期待に応えつつ、公共性の高い社会的問題に関する意思表明を明確にするという戦略的な企業経営を継続的に展開する必要がある、という考え方が導き出されます。
[1] ベネット・フリーマン氏の前掲論考(注4)参照。
地政学デューデリジェンスの重要性
欧州企業と同様に我が国企業も、これまでは政治的に中立的な立場を取ることを是としてきた経緯がありますが、今日の国際環境にあって、「企業の地政学的責任」が問われつつあるという前提を受け入れた場合、企業は、海外事業を展開するにあたり、ときには、ある特定の地政学リスクに関して自社の政治的立場を明確にし、その立場に沿った経営判断が求められる局面が訪れる可能性も想定しておくことが賢明といえるでしょう。
企業はその前段階として、既存のさまざまなリスクマネジメントに加えて、地政学的デューデリジェンス(geopolitical due diligence)と呼ばれる新たなリスクマネジメントへの取り組みを心掛ける必要があります。
地政学デューデリジェンスと類似した取り組みにカントリーリスク評価があります。カントリーリスク評価とは、海外向けの投融資や貿易を行う際、対象国において予測される政治・経済・社会的な情勢変化や不安定要因などを特定し、その危険度を格付けすることを意味します。
これに対して地政学デューデリジェンスは、個々のカントリーリスクに加えて、地域レベルのリスク、あるいは広域の地政学的トレンドなども把握することが求められます。
たとえば、昨今、台湾有事の可能性が取りざたされていますが、この問題に関して地政学デューデリジェンスを進める場合、いわゆる「両岸関係」のみに着目するだけでは不十分であり、朝鮮半島の安定度、中印関係の安定度、そしてASEAN諸国の動向など大陸国家である中国の周辺諸国との関係についても目を配る必要があります。
また、国際テロ組織の活動は、A国で計画され、B国で準備され、C国で実行されるといった越境的なオペレーションが行われることが多く、たとえばアフリカや中東の一部の国など国家統一が不完全で、越境的な犯罪行為が慢性化している地域では、そうした国境をまたいだ地域単位でのリスクアセスメントが不可欠となります。
逆に、カントリーリスクは国家単位でのリスク評価に傾きがちであり、ある国の一部地域の問題に過ぎないリスクがその国全体のリスクであるかの「過大評価」がなされ、無用のリスク回避を導く可能性もあります。
こうした観点は、地政学デューデリジェンスに求められる多面的な調査事項のごく一部に過ぎませんが、いずれにせよ、企業は「企業の地政学的責任」を踏まえた国外での事業展開を進めるにあたって、その前段階としての、地政学デューデリジェンスを通じた綿密なリスクマネジメントを講ずる必要があるといえます。
「正解」のない地政学リスク――米中対立と日本企業の独自戦略
本稿では、ロシアのウクライナ侵攻をめぐる政治的立場を明確にした欧州企業の事例を素材として、地政学リスク時代の「企業の社会的責任」、すなわち「企業の地政学的責任」の重要性について紹介し、我が国企業としても、そうした「企業の地政学的責任」と適切に向き合う必要があること、そのためには周到な地政学上のデューデリジェンスが求められることなどをご説明しました。
ここで重要なことは、「企業の地政学的責任」を果たすにあたっても、我が国は我が国なりの独自の視点から、この課題に取り組む必要があるということです。ロシアのウクライナ侵攻は、ある意味、政治的立場を明確にしやすい事例ということができます。
国連安保理の常任理事国であるロシアが、第二次世界大戦後の国際関係の根本規範である「力による現状変更の禁止」原則に違反し、国際法秩序を明確に毀損したこと、それゆえ国際刑事裁判所(ICC)がロシアのプーチン大統領らに対し、戦争犯罪人として逮捕状を出していることなどは、「ことの是非」を判断することを容易にしているといえます。
しかしながら、現代世界に発生しているさまざまな地政学的リスクは、「ことの是非」を容易に判断できない事例が少なくないことも事実です。とりわけ、21世紀最大の地政学上の主題といえるいわゆる「米中対立」については、かつての米ソ冷戦のように、経済相互依存が成立していない相互に排他的な圏域同士の争いとは、性質が大きく異なる複合的な現象といえます。また、地理的に中国の近隣に位置する我が国が「地政学」的に置かれた立場は、米国とも欧州とも異なります。
そうした中、我が国企業として、中国との関係において「企業の地政学的責任」とどのように向き合うべきかという問いは、単純に答えを導くことができない難題といえます。それゆえ我が国の個々の企業は、「自社にとっての説明責任」を明確にすることにより、株主や他のステークホルダーの期待に応えつつ、経済、環境、社会的要請のバランスを達成するための戦略的な企業経営のかたちを模索することが求められているといえます。
そのため企業が行う、地政学デューデリジェンスには、個々の企業の立場や業態など、個別具体的な状況を踏まえた、解像度の高い状況分析が求められます。当社がご提供する地政学デューデリジェンスは、クライアント企業の個々の事情・状況に応じたビスポーク型のリスク・アナリシスを強みとしており、お客様のグローバルな事業展開における各般のリスクマネジメントを多面的にサポートいたします。