はじめに

近年、企業経営の主要な課題として「地政学リスク」が注目されるようになりました。ただし、リスクマネジメントの観点でいうと、「地政学リスク」は多少扱いにくい概念であるといえます。というのも、このリスクは「I know it when I see it(見れば判る)」といった代物ではなく、仮に、一般的にみられるように地球上で確認されるさまざまな政治・軍事的事象を「地政学リスク」と呼んだとして、それが誰にとってのどのような具体的な負の影響として現象化し、あるいはその因果関係をいかに整理するべきかといった点についての一般化が容易ではないからです。とはいえ、個々の企業が、そうした事象によって「何かしらの影響」を受ける可能性は間違いなく高いという状況は否めません。

その意味で、「地政学リスク」は、「捉えどころはないがほぼ間違いなく実在するリスク」として我が国を含む世界の企業の外部環境要因に組み込まれているといえます。

以下ではこうした取り扱いが難しい「地政学リスク」に対して企業が適切に対応するために備えるべきインテリジェンスのあり方について考えてみたいと思います。

「地政学リスク」の定義はほどほどに

捉えどころはないがほぼ間違いなく実在する「地政学リスク」に対して、企業はいかに向き合うべきなのでしょうか。まず重要なことは、意外かもしれませんが、「地政学リスク」そのものの定義や意味内容にさほどこだわる必要はないという点です。

そもそも「地政学リスク(geopolitical risks)」という用語自体の歴史は浅く、2002年9月に米国連邦公開市場委員会(FOMC)の会合[1]で用いられたのが最初期の事例とされています。この時は、前年9月に発生した米国同時多発テロ事件からの流れの中で緊迫化したイラク情勢が金融市場などに及ぼしうる可能性を漠然と指していたと考えられます。

その後、「地政学リスク」という言葉は、広くメディア等で使用されるようになり、とくに2014年の「クリミア危機」以降、たとえば日米両国の大手メディアにおいて「頻出単語」となって現在に至ります[2]

いわば明確な定義を受けないままメディアを中心に使用されてきた「地政学リスク」ですが、最近では専門家による概念整理もある程度進んでおり、その中で汎用性の高い定義もいくつか見られるようになりました。たとえば米国連邦準備制度理事会(Federal Reserve Board)に所属するDario CaldaraとMatteo Iacovielloという2名の経済学者による以下の定義があります。

戦争、テロリズムおよび国際関係の平和な進行に影響を与える国家や政治的アクター間のあらゆる緊張と関連するネガティブな事象(adverse events)をめぐる脅威、その実現およびエスカレーション[3]

ここでいう事象(events)を広義に捉えた場合、この定義は、米中対立、台湾有事、ロシア・ウクライナ紛争、イスラエル・ハマス紛争、特定国による経済的威圧など、位相の異なるさまざまな政治・軍事的事象を包括的に捉えることができます。

ただし、このように定義の汎用性が高くなればなるほど、「結局なんでも地政学リスクに含まれる」ということになり、個々の企業にとって、具体的なリスクマネジメントの対象を特定するということはあまり役に立たないということになります。

したがって、こと企業のリスクマネジメントという視座に立った場合、「地政学リスク」の「定義」へのこだわりはほどほどにして、むしろ、なぜ近年、そもそも「地政学リスク」という用語がメディアに頻出し、企業としてそのリスクに向き合わざるをえなくなったのか、その理由を再確認することのほうが重要であるといえます。


[1] https://www.federalreserve.gov/monetarypolicy/files/FOMC20020924meeting.pdf

なおこの会合では、geopolitical risksと同様の意味合いでgeopolitical concerns/geopolitical fears/geopolitical uncertainties/geopolitical shockなどの表現が用いられています。

[2] 「地政学リスク/geopolitical risk」という語の日米メディアにおける使用頻度の変遷は以下をご参照ください。なお、この文献では2014年を「地政学リスク元年」と捉えています。

『地政学リスクの時代と日本経済』(一般社団法人日本経済調査協議会、2018年7月)。https://www.nikkeicho.or.jp/new_wp/wp-content/uploads/sympo_tisei_houkokusyo.pdf

[3] https://www.matteoiacoviello.com/gpr_files/GPR_PAPER.pdf

あらためて、今なぜ「地政学リスク」なのか

近年、企業が「地政学リスク」に向き合わざるをえなくなった時代背景について、ある専門家は、次の4点に整理しています[1]

1) 社会内部および社会同士の深い接続性。これはグローバリゼーションのような恩恵をもたらす一方で、相互依存に係るリスクをもたらした

2) 欧米と中国の地政学的競争(註:ここでいう「地政学的」とは、「グローバルで構造的な」という意味でご理解いただいて問題ないと思います)

3) この競争では、AIや半導体などの先端技術が主要な領域となっている。

4) 民間部門がこの競争における主要なアクターである。

この整理は、主に中国の台頭に伴う既存の国際秩序の構造転換を念頭に置いたものと理解されますが、第1点目の、「世界の接続性の深化」という点は、冷戦終了後にいったんグローバリゼーションが普及し、それによって新興国の台頭を招いた結果、各国の経済的結びつきを逆手に取った、いわゆる「経済相互依存の罠」が発生したという現在の地経学的状況を理解する上で重要な観点といえます。

いずれにせよ、こうした時代背景の下で浮上してきた「地政学リスク」という概念の肝は、これまで企業の外部環境要因において必ずしも上位に位置づけてはこなかった国際的な政治・軍事的事象が、今や企業の事業運営に無視できない影響を与える重要な経営レベルの要対応事項となったという状況認識の転換を企業に促している点にあります。

とくに重要なのは、「民間部門が、大国間での地政学的競争における主要なアクターである」という認識です。昨今の、国際間での政治・軍事的な緊張や摩擦は、1990年代以降の経済のグローバル化に伴って成立した各国・地域間の経済的相互依存と密接に連動するかたちで発生しており、そうした経済相互依存の実質的アクターである個々の企業が否応なく、そうした緊張や摩擦に絡めとられてしまう状況にあるといえます。


[1] https://hbr.org/2022/11/how-companies-can-navigate-todays-geopolitical-risks

「地政学リスク」の3つの位相

ところで、本稿冒頭で、「地政学リスクは捉えどころがない」と述べましたが、その理由は、ある地政学的事象とそれが企業に与える影響との因果関係が一義的に定まらない点にあります。そうした中、企業が「地政学リスク」を適切にマネージするにあたっては、少なくとも以下の3つの位相を理解する必要があります。

第1に、特定地域における地政学的インシデントが企業にもたらすリスクです。たとえばこの位相で、日本企業が無視できない事例が「台湾有事」です。ただし、その意味するところは、リアルな軍事的衝突、ローカルサプライチェーンの寸断、あるいは親台湾とみなされた日本企業に対する中国本土で不買運動などさまざまです。いずれにせよ、特定地域における政治・軍事的事象が自社の経営ないしは事業運営に及ぼす直接・間接の影響、これが第1の位相の「地政学的リスク」となります。「台湾有事」のほか「ロシア・ウクライナ紛争」「イスラエル・ハマス紛争」などがこのカテゴリーに含まれます。

第2に、そうした特定地域のインシデントに還元されない構造的な地政学的緊張関係が企業にもたらすリスクです。この位相の最たる事例が米中対立です。こうした長期にわたる構造的な大国間の緊張関係は、「平時」と「有事」の切り分けは困難であり、「ある特定の事象が起こるか起こらないか」といった視点でのリスクマネジメントでは不十分といえます。むしろ「米中両国は、常時ハイブリッドな疑似戦争状態にありながら、その間に一定の経済相互依存が成立している」という21世紀特有の地政学的競合関係を念頭に置いた、多面的なリスクマネジメントが求められます。具体的には後述します。

第3に、第1の位相とも一部関係しますが、リスクマネジメントと区別されたクライシスマネジメント(危機管理)という位相です。リスクマネジメントを、「不確実性による負の影響の管理(回避、低減など)」と捉えるとすれば、クライシスマネジメントは、「顕在化した重大インシデントの管理(初期対応、二次被害の回避など)」と捉えることができます。いずれも「地政学リスク」対応において不可欠な構成要素となりますが、後者は、「地政学的リスク」の分野では、物理的セキュリティ(社員の緊急避難、退避。破壊された施設の復旧など)の領域として、独立した位相として扱われることが通例です。

企業が外部環境要因としての「地政学リスク」を捉える際には、これら3つの位相のどれに該当するのかを把握した上で、適切なシナリオプラニングを行うことが肝要です。

なお、「地政学リスク」を広義に捉えた場合、上記の他に、サイバー・セキュリティ、人権・環境などを含むESGデューデリジェンスなども考えられますが、本稿では割愛します。

企業ごとに異なって当然の「地政学リスク」把握

上記を踏まえ、企業がより具体的に「地政学リスク」を把握するためには、自社の業態や事業展開先などを踏まえて、いかなる政治・軍事的事象に着目すべきかを精査する必要があります。

この点、さる5月13日に世界経済フォーラム(World Economic Forum)が発表した『地政学的競合とビジネス(Geopolitical Rivalry and Business)』という白書[1]は、個々の企業がその事業分野や事業展開する地域、自社に定着した思考傾向などによって、「地政学」という言葉や「地政学的競合」という時代状況をさまざまに捉えている事態を示しており、参考になります。

この白書では、2023年の第3四半期に世界経済フォーラムが実施した、中国、欧州、中東、北米に本社を置く製造業やサービス業などを展開するグローバル企業の13名の経営幹部を対象とする、グローバル企業が、進化する地政学的ダイナミクスをどう捉え反応するかについてのインタビュー結果が紹介されています。

この中で、「地政学(geopolitics)という言葉から何を連想するか」、「その連想の中で同時代的に現象化した事例は何か」、「将来起こり得る現象として想定されるものは何か」という3つの質問に対して上記の経営幹部が回答した内容の一覧が以下のとおり示されています。

「地政学」から連想するもの同時代の事例今後起こり得ること
米中対立の激化– トランプ政権下で課された関税 – 特定技術の輸出規制 – 国家安全保障を理由とする対内・対外投資審査 – デカップリング、デリスキングのシナリオ南シナ海における紛争勃発時の、対中制裁の可能性。
中国政府が外国企業に対して取る行動の符合としての「地政学」– 外資系企業への嫌がらせ、操業への圧迫 – 政府関係者による外資系企業への関与や助言の拒否 – 地元住民の外資系企業への就職の制限無回答
国際法に違反した国に対する制裁– 2014/2022年のウクライナ侵攻に伴う対ロシア制裁 – ロシアによる小麦とエネルギー供給の兵器化とその商業的影響 – ロシア子会社の想定外の売却南シナ海における紛争勃発時の、対中制裁の可能性。
欧米におけるポピュリズムとナショナリスト感情– BREXIT(ブレグジット)および、その結果としての、一部での復活した規制権限の積極的な適用 – 「アメリカ第一」の貿易政策ドナルド・トランプの再選。
世界経済の分断– ロシア制裁の意向をめぐる各国間の対立 – 北米と西欧の経済ブロックの強化 – バイデン政権のインド太平洋経済枠組み(IPEF)構想。 – 地域包括的経済連携と環太平洋パートナーシップ包括的および先進的協定(CPTPP) – 中国の一帯一路構想 – 重要原材料の争奪戦高障壁を伴う明確なブロック化。
COVID-19パンデミックに起因する、必需品の海外サプライヤーへの過度の依存への懸念– 現地生産や工場移転を促進する補助金によって、特定国への過度な依存を低減する試み – フレンド・ショアリングのシナリオ – 生産拠点を多様化し、バイヤーに近い生産拠点を増やすという顧客からの圧力生産移転、さらにはリショアリングの義務付け・奨励。
重要原材料へのアクセス– 採掘国による輸出制限と禁輸措置 – 企業や政府による供給確保のための先制的投資(潜在的なオフテイク契約に係る海外直接投資を含む)石油輸出国機構(OPEC)などの重要原材料のサプライヤー間の潜在的な取引。
地政学上の競合国からの工場移転や自国への工場回帰の誘致(リショアリング)– 中国からの輸入品に対する米国の高関税と、米国・メキシコ・カナダ貿易協定の交渉の組み合わせ – 中国から自国または東南アジア諸国連合(ASEAN)への工場移転を奨励する日本政府の計画 – ASEANへの工場移転の奨励無回答
戦略的に重要な分野における産業政策– G20諸国での半導体生産の奨励、特定上流技術の販売禁止 – 政府によるエネルギーインフラへの外国投資の制限 – デジタル分野を含む現地化要件の付与無回答
自国の商業利益に対する強化された優遇措置、濃淡ある保護主義– 規制等、透明性のない非関税障壁の設定 – 多国間規範の遵守の低下 – 優遇された地元企業に対する救済措置や補助金付与 – 外国投資家の収用 – 外国企業の公共部門バイヤーへの製品販売の禁止無回答
重要技術の輸出規制– 半導体等、特定の商業的・軍事的に機密性の高い技術の禁輸措置または厳しい承認要件の設定 – デュアルユース規制無回答
個別外国企業に対する市場アクセスの拒否– ファーウェイとTikTokに対する措置無回答
  • 上表は、オリジナルの英文を当社調査部で和訳し、一部内容を整理したもの

上表のいずれの回答も、「地政学リスク」時代に企業が着眼すべき重要な国際政治上の事象や各国の施策を捉えているといえます。ただし個々の事象の「解像度」はさまざまで、そのまま自社の経営上、事業運営上のリスクとして具体的な対策を講じられる次元にまで細分化されたものもあれば、比較的マクロの状況把握に留まり、さらに個別具体的なリスク課題に落とし込む余地があるものもみられます。

いずれにせよ上記の回答は、中国、欧州、中東、北米の企業なりの内容であり、その国・地域からのリスク認識を示していると考えられることから、日本企業としては、その立ち位置に見合った状況把握、課題抽出を行う必要があるといえます。もっとも上記の「地政学リスク」把握の背景にはいくつかの共通した企業の課題意識が窺えます。それらは、大きく以下の5つに整理することができます。

  • 1) 地政学的ホットスポットに関連するサプライチェーンの見直し:生産地およびR&D拠点の移転(リショアリング、フレンド・ショアリング、地政学的競合に中立を保つ第三国への移転など)
  • 2) 地政学的競合関係の影響下における企業の事業展開の見直し:関税障壁および輸出・投資規制、外国企業への差別的待遇等の非関税障壁の回避
  • 3) 戦略物資へのアクセス:半導体、重要鉱物、その他の戦略物資の安定的調達の確保あるいはその禁輸措置の回避
  • 4) 国際法違反国等のおける事業展開の再検討および当該国への制裁による影響低減:現地子会社の売却、BCP策定など
  • 5) 世界経済のブロック化等、マクロ的環境への中長期的な対応など:グローバル経済の中長期的動向把握(グローバル経済は後退し保護主義が台頭しているのか、あるいはグローバル経済はバリューチェーン組み換えによる新たなフェーズに進化しているのかなど)

これらの大枠の課題意識の下、個々の企業は、自社の個別具体的な経営戦略、事業運営に沿ったさらに解像度の高い「地政学リスク」の特定に進む必要があります。


[1] https://www3.weforum.org/docs/WEF_Geopolitical_Rivalry_and_Business_2024.pdf

抽象的なリスクを「意思決定」へ落とし込む ―― 現代企業に不可欠な「地政学リテラシー」

企業の「地政学リスクマネジメント」は、個社にとって無視できない政治・軍事的事象を特定し、それがいかなる位相のリスクとして顕在化し得るのかを精査し、それをさらにその具体的な経営上・事業運営上のリスクに落とし込み、評価し、適切な対策を講じるという、「ブレイクダウン」の作業が不可欠になります。とりわけ「地政学リスク」が本来的に「捉えどころのない」ものであることから、それを具体的な企業の意思決定課題につなげる発想が不可欠です。

本項では、企業が「地政学リスク」と向き合うにあたり、①「地政学リスク」そのものの定義にはさほどこだわらず、むしろなぜ今、「地政学リスク」が注目されるようになったのかその時代背景を正確に把握すること、②一口に「地政学リスク」といっても、「特定地域における地政学的インシデントが企業にもたらすリスク」「特定地域のインシデントに還元されない構造的な地政学的緊張関係が企業にもたらすリスク」「通常のリスクマネジメントと区別されたクライシスマネジメント」という3つの位相に整理されることから、個別の事象がこれら3つの位相のどれに該当するのかを把握した上で、適切なシナリオプラニングを行うこと、③より具体的に「地政学リスク」を把握するためには、自社の業態や個々の企業として、いかなる政治・軍事的事象に着目すべきかを精査し、そこから、個々の企業の立ち位置に見合った課題抽出を行う必要があることなどを示しました。

「地政学リスクマネジメント」は、企業に求めらるリスクマネジメントの1つの柱であり、一般的な「リスクの特定⇒分析⇒評価⇒対処」のプロセスから大きく逸脱することはありません。しかし、既述のとおり、「地政学リスク」には、ある地政学的事象とそれが企業に与える影響との因果関係が一義的に定まらないという固有の事情があることから、その因果関係を的確に把握するための「地政学リテラシー」が必要となります。

「地政学リテラシー」は、個々の政治・軍事的事象について、その歴史的・思想的背景や、一次的、二次的な波及効果などにも目を配りつつ分析した上で、それが企業の経営上、事業運営上の具体的課題に結び付くのかを把握するもので、現在の企業が備えるべき不可欠なインテリジェンスといえます。

当社がご提供する「地政学デューデリジェンス」は、こうした地政学リテラシーを駆使して、クライアント企業の個々の事情・状況に応じたビスポーク型(Bespoke/注文服のように仕立てられた)のリスク・アナリシスを強みとしており、お客様のグローバルな事業展開における各般の重要意思決定を多面的にサポートいたします。