vol.1「ビジネスと人権」と「人的資本経営」において企業の事業やバリューチェーンにおける⼈権尊重を求める「ビジネスと⼈権」と⼈材価値を最⼤限に引き出し、中⻑期的な企業価値向上につなげる「⼈的資本経営」について取り上げました。そしてその中で、両者はいずれもサステナブルな企業価値向上を⽀える⾞の両輪として、リスクと機会の観点から共に取り組んでいくことが重要であると解説しました。今回は、前回の続きとしてこの両者の関係性と、特に⼈的資本経営の前提となり得る企業の⼈権尊重の取り組みを中⼼に解説します。
1.⼈的資本経営のベースとなる企業の⼈権尊重
⼈権への負の影響にフォーカスを当てる「ビジネスと⼈権」と、⼈材価値の向上にフォーカスを当てる「⼈的資本経営」は、同じ「⼈」に関する取り組みではありますが、前者は「リスクの防⽌・軽減」、後者は「機会の促進・増⼤」と、基本的な取り組みの⽅向性に違いがあります。もう少しこの両者の概要を整理すると、以下のようになります。
【図表1 企業の⼈権尊重と⼈的資本経営の概要】

※ライツホルダー:⼈権の主体となる⼈々。⼈権が侵害される可能性がある、また、実際に侵害されている⼈々(出所)国連「ビジネスと⼈権に関する指導原則」および経済産業省「⼈材版伊藤レポート2.0」等より筆者作成
この「ビジネスと⼈権」と「⼈的資本経営」における企業の取り組みは、その⽬的やアプローチ、視点、対象範囲などで違いがありますが、特に重要な相違点は、⼈的資本経営が「コーポレートの視点」での取り組みである⼀⽅、ビジネスと⼈権は「ライツホルダーの視点」での取り組みである点です。つまり、ビジネスと⼈権におけるリスクとは、基本的に“コーポレート・リスク”ではなく、“⼈権リスク(⼈権への負の影響が発⽣するリスク、⼈権が侵害されるリスク)”であり、⼈権デューデリジェンス(⼈権DD)においてフォーカスされるのも企業のリスクではなく、この⼈権リスクとなります。
⼀⽅で、この両者には共通している点もあります。それは、①どちらも経営陣がコミットする全社的な取り組みであること、②企業として優先順位をつけて取り組んでいくこと、③モニタリングを実施し、進捗や効果を確認してより効果的な施策につなげていくこと、④投資家や他のステークホルダーに対して積極的に情報開⽰を⾏うとともに、エンゲージメントを通じて継続的な取り組みの改善につなげていくことなどです。取り組みの視点や対象範囲などは異なっても、企業の事業活動を通じて付加価値を⽣み出す主体である従業員、また事業に直接・間接に関与し影響を受ける取引先やサプライチェーンの労働者、消費者、先住⺠族などの「⼈」にそれぞれフォーカスを当て、⼈権リスクの最⼩化と⼈材価値の最⼤化というそれぞれの取り組みに経営陣がコミットし、施策の改善、情報開⽰、エンゲージメントを繰り返していくプロセスは、まさに企業がリスクと機会の観点からサステナブルな企業価値向上を⽬指すうえで、どちらも⽋かせない取り組みと⾔えるでしょう。この企業による⼈権尊重と⼈的資本経営、また同様に「⼈」への施策である健康経営やウェルビーイング*を含めて、それらの関係性を⽰すと以下のように表すことができます。
*ウェルビーイング:⾝体的・精神的・社会的に良好な状態を指し、ウェルビーイング経営は、従業員や取引先など企業に関わるステークホルダーが⾝体的・精神的・社会的に満たされ、いきいきと働ける環境を⽬指す。
【図表2 「⼈」に関わる課題や取り組みの関係性】

(出所)国連「ビジネスと⼈権に関する指導原則」および経済産業省「⼈材版伊藤レポート2.0」、「健康経営の推進について」(令和6年3⽉)等より筆者作成
企業価値の源泉である⼈的資本に積極的に投資を⾏い、従業員エンゲージメントを⾼めて⼈材価値を最⼤限引き出すことで、サステナブルな企業価値向上につなげていく⼈的資本経営は、その企業がハラスメント体質で、⻑時間労働が常態化していたり、職場での事故や健康被害が発⽣したりするなど、⼈権への負の影響が潜在化・顕在化しているような状況では、なかなか取り組みの効果は⾒込みづらいでしょう。⾃社の事業領域や特性、⽅向性、国内外のバリューチェーンの状況などを考慮し、企業内外の⼈権課題に関する専⾨的な情報や知⾒を⼗分に参照しつつ、従業員や他のステークホルダーとの対話を通じて、⼈権⽅針を策定し、経営が⼈権尊重にコミットしていくこと、そして情報開⽰を通じてステークホルダーに周知徹底し、事業⽅針や⼿続きにも反映していくこと、さらに⼈権DDや⼈権が侵害された際の救済措置の構築に取り組んでいくことで、企業として社内外で直接・間接に事業に関わる「⼈」の⼈権を尊重する姿勢や対策をしっかりと内外に⽰すことが、⼈的資本経営に向けたベースの取り組みとして⾮常に重要となります。
2.「ダイバーシティ&インクルージョン」を⽀える⼈権尊重
さて、この⼈的資本経営と⼈権尊重の関係性をもう少し深掘りするために、⼈的資本経営を⽀える重要な概念であるダイバーシティ&インクルージョン(Diversity & Inclusion:D&I)について取り上げたいと思います。D&Iとは⽂字通り「多様性と受容性」を意味し、組織が多様な⼈材を包括的に受け⼊れ、その個性を⽣かす取り組みを意味します。ダイバーシティには、性別や年齢、⼈種や国籍、障害の有無、性的指向、宗教・信条、価値観などのダイバーシ
ティだけでなく、キャリアや経験、また雇⽤形態や勤務時間、勤務場所といった働き⽅のダイバーシティなど、さまざまな多様性が含まれます。
⼀⽅のインクルージョンとは、そのような多様な⼈材の⼀⼈ひとりが「職場で尊重されたメンバーとして扱われている」と認識している状態を指します。職場の⼈が多様化しただけでは新たな価値を⽣むのに不⼗分であり、その多様な⼈材が能⼒を発揮できる「組織⾵⼟」、すなわち「インクルージョン」の⾵⼟をつくっていくことが重要となります。⼈的資本経営においてD&Iが重視されてきた背景や理由として、主に以下が挙げられます。
【図表3 ⼈的資本経営においてD&Iが重視されてきた背景や理由】

(出所)経済産業省「ダイバーシティ経営の推進について」(2024年2⽉6⽇)および「⼈材版伊藤レポート2.0」等より筆者作成
従って、⼈的資本経営においてD&Iを推進することにより、①⼈材⼒の強化(多様な背景を持つ⼈材を受け⼊れることで、優秀な⼈材の確保が容易になる)、②イノベーションの創出(多様な視点や経験が融合することで、新しいアイデアや⾰新的な解決策が⽣まれやすくなる)、③従業員のエンゲージメント向上(多様性を尊重する職場環境は、従業員満⾜度(ES)やモチベーション向上につながりやすい)、そして④顧客満⾜度(CS)の向上(強化された⼈材によ
るイノベーティブな製品やサービスの提供は、顧客や社外からの評価向上につながりやすい)が期待でき、その結果、企業の競争⼒向上と持続的な成⻑、そしてサステナブルな企業価値の向上につながることが期待できるというものです。
⼀⽅で、D&Iを有効な成果につなげていくためには、先述の通り、多様な⼈材の⼀⼈ひとりが「職場で尊重されたメンバーとして扱われており、⾃分が職場の⼀員として認められ、⾃分の能⼒や独⾃性がその企業や組織の成功のために必要とされている」と認識できるような組織⾵⼟、インクルージョンの⾵⼟をつくっていくことが、多様な⼈材の能⼒を⼗分に引き出すうえで重要となります。そのためにも多様な⼈材が集まって活躍する⾃社が関わる労働環境において、ハラスメントやジェンダー差別、外国⼈労働者の権利侵害、賃⾦差別、強制労働などの⼈権侵害リスクを最⼩化していくことが、ベースの取り組みとしてとても重要な役割を担うと⾔えるでしょう。
3.サステナブルな企業価値向上につなげる「対話」の重要性
ところで、D&Iについては近年、「Equity(公平性)」が加わり、「Diversity, Equity &Inclusion:DE&I)」が主流となりつつあります。これは、単に多様性と受容性を推進するだけでなく、個々の違いや背景などに応じた「公平な」⽀援を提供する必要性がより認識されてきたためです。公平性は、すべての⼈が同じスタートラインに⽴てるようにするための概念で、それぞれのニーズや状況に応じたサポートを提供し、不平等を是正することが⽬指されています(つまり、この公平性は平等(Equality)とは異なります。例えば、平等はすべての⼈に同じリソースを提供することを意味する⼀⽅、公平性(Equity)はそれぞれの⼈の特性や状況に応じて提供するリソースを調整することを意味します)。その意味では、企業における⼈権尊重の取り組みにより、差別など⼈権侵害リスクを抑制するとともに、皆にとって公平な労働環境をつくること、同時に⼈的資本経営により、多様性と受容性を追求し、従業員エンゲージメントの向上につなげていくことは、サステナブルな企業価値向上に向けた⾞の両輪として、ますます必要不可⽋な取り組みとなっていくでしょう。そして、その際にいずれの取り組みでも特に重要となるのが、従業員やその他ステークホルダーとの「対話(ダイアログ、エンゲージメント)」です。この⼈的資本経営や⼈権尊重の取り組みにおけるさまざまなステークホルダーとの「対話」が企業価値向上だけでなく、企業不正の抑制の⾯でも重要な役割を担うことになります。この辺りについては、vol.3で解説したいと思います。
※本記事は、三菱UFJ銀行『MUFG Biz Buddy』に寄稿した内容を元に再編集したものです
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