本連載ではこれまで、「ビジネスと⼈権」「⼈的資本経営」を取り上げ、⼈的資本経営のコアとなるDE&I推進における⼈権尊重の重要性などについて解説しました。今回は、⼈的資本経営やサステナブルな企業価値向上を⽀える⼟台となる、企業における⼈権尊重の取り組みにスポットを当て、その取り組みにおける重要な考慮事項などについて、企業不正との関係も含めて解説します。
1.⼈権尊重における「企業の責任」の背景
近年は、国内でも事業活動における⼈権尊重の重要性への認識が⾼まりつつあり、すでに多くの上場企業が⼈権⽅針の策定を⾏うとともに、⼈権デューデリジェンス(⼈権DD)の実施率も⾼まってきているようです。⼀⽅で、その取り組み姿勢や内容、対象範囲や深度などについては企業によってさまざまです。実効性のある取り組みができている企業もあれば、形式的な作業にとどまっている企業、また、依然として実施について検討している段階という企業もあります。形式的な作業にとどまっている企業や検討段階にある企業から特に共通して発せられるのは、「なぜ、⾃社の社員以外の⼈権侵害リスクまでケアしなければいけないのか︖」「海外の状況は国内から⾒えにくく、さらにそのサプライヤーの⼈権状況まで本当に⾒る必要があるのか︖」「⼈権DDはどこまでやれば、とりあえず合格とされるのか︖」といった旨の疑問の声です。
企業はその規模や業種にかかわらず、⼈権を尊重する責任があることは、国連の「ビジネスと⼈権に関する指導原則」において明確に⽰されていますが、もともとは国家が権⼒を濫⽤して⼈権を侵害してきた歴史があり、「⼈権」の尊重に関する問題は、従来は国家対私⼈という構図で議論されてきました。しかし、経済活動のグローバル化が進展し、特に1960年頃からの脱植⺠地化を境に先進国の多国籍企業が新興国に多く進出して、⽣産活動を積極化すると、現
地での環境破壊や⼈権侵害が問題となりました。その際に、現地の法規則では先進国の多国籍企業(親会社)への責任追及が困難であったことから、現地住⺠や先住⺠が規制と救済を求めて国連に訴える流れの中で、企業に対して⼈権尊重の責任を求める⼤きな要因となりました。
このような背景から、ビジネスと⼈権に関する指導原則では、「⼈権を尊重する責任は、事業を⾏う地域にかかわらず、すべての企業に期待されるグローバル⾏動基準である。」と明記されています。要するに、⾃社事業に関わる海外の取引先やサプライヤー、現地住⺠、先住⺠などに対して起きている⼈権侵害について、「そこまでケアする必要があるのか︖」といった先述のような疑問の声が上がるとすれば、それはビジネスと⼈権に関する指導原則のそもそもの
趣旨を理解していないと⾔わざるを得ないでしょう。
2.⼈権尊重の取り組みにおける重要な考慮事項
さて、上述のような「企業の責任」の背景を認識しつつ、⼈権尊重の取り組みを実効性あるものにしていくうえで、特に重要と思われる考慮事項を挙げたいと思います。
(1)⼈権尊重の取り組みを「コスト」と捉えない
企業によって程度の差はありますが、事業活動における⼈権尊重の取り組みを積極的に推進している企業に総じて⾒られる特徴として、このような取り組みを単なる「コスト」と捉えたり、作業や⽅法論に終始することなく、企業⽂化や価値観の中核に据えて企業価値向上やブランディングの⼀環として取り組んでいることが挙げられます。企業にとって、⼈権尊重の取り組みは、直接業務と関係しない⼀⽅、⼈権DDや救済メカニズムの構築、運営などで⼈員や予
算が継続的に必要となります。このため、どうしても「コスト」とみなされやすく、運営も⼈事部⾨やサステナビリティ部⾨の担当者任せになりやすい⾯はあります。
しかし、⼈権尊重の取り組みはあくまでも「モノ」を扱う作業や事務的なペーパーワークではなく、事業に直接・間接に関わる「⼈の権利」を尊重する重要かつ継続的な取り組みです。従って、コストと捉えたり、形式的な作業やその⽅法論に終始するようでは、実効性のある取り組みにはなりづらく、むしろ、企業として⼈権尊重に積極的に取り組むことでサステナビリティとレジリエンス*をアピールしていくことが、重要かつ有効と思われます(図表1)。
*問題や困難な状況に対して、柔軟かつ効果的に対応・適応して回復する⼒・能⼒
【図表1 ⼈権尊重の取り組みで先⾏する企業に⾒られる考え⽅】

(出所)国連「ビジネスと⼈権に関する指導原則」および国内外企業の統合報告書、サステナビリティ・レポートなどを参照し、筆者作成
(2)⼈権リスクを「コーポレート・リスク」と混同しない
⼈権リスクは、企業のリスク(コーポレート・リスク)と混同されがちです。これによる典型的な例は、「従業員に対する⼈権侵害が発覚したら、会社が責められる」「⼈権DDで取引先から回収した⾃⼰査定アンケートに、特に問題となりそうなことが書いてなかったのでよかった」といった考え⽅や、「⼈権尊重の取り組みが不⼗分だったとしたら、何か会社に問題が⽣じるか︖」という問いかけです。⼈権リスクはあくまでも⼈権に負の影響が及ぶリスク、⼈権
侵害のリスクであって、コーポレート・リスクではありません。従って、企業の⼈権尊重の取り組みも、あくまでステークホルダー(基本的にはライツホルダー**)の⼈権に負の影響が及ばないために⾏うものであり、企業が損害を被らないために⾏うものではないということです(もちろん、⼈権尊重の取り組みが不⼗分なために企業のレピュテーションが低下するなどのリスクは起き得ますが、このリスクは⼈権リスクではありません)。
**⼈権の主体となる⼈々(権利保有者)。⼈権が侵害される可能性がある、また、実際に侵害されている⼈々
そして、何よりもこの認識を企業の経営トップが持てるかどうかによって、⼈権DDの取り組み姿勢や外部からの評価も変わってきますし、実際に⼈権侵害事案が起きた際の対応などに差が出やすくなります(図表2)。
【図表2 ⼈権リスクの捉え⽅に基づく考え⽅や取り組みの違い】

(出所)国連「ビジネスと⼈権に関する指導原則」および国内外企業の統合報告書、サステナビリティ・レポートなどを参照し、筆者作成
(3)⼈権リスクが「ないことはない」という認識を持つ
図表1の下段にも⽰したように、⼈権リスクがないことや、なくなることは「ない」ということを、基本認識として持つことも重要なポイントとなります。企業の⼈権尊重の取り組みにおいては、顕在化した⼈権侵害を救済・軽減することはもちろんのこと、まだ顕在化していない、潜在的な(起こる可能性のある)⼈権侵害リスクの発⽣を防⽌することはとても重要です。仮に本当に顕在化している⼈権侵害がなかったとしても、潜在的な⼈権侵害リスクがない
ということは残念ながらあり得ません。従って、⼈権DDにおいても潜在的な⼈権リスクをむしろ積極的に炙り出して(⼀⽣懸命探して)、防⽌・是正していく継続的な取り組みとなります。このような積極的かつ継続的な取り組みが、企業の⾃浄作⽤能⼒、レジリエンスをアピールしていくことにつながります。
統合報告書などで「⼈権DDの結果、特に⼈権リスクはありませんでした」と開⽰する企業もありますが、このような開⽰は、「しっかりと客観的な情報を収集したり、専⾨的な知⾒を活⽤したり、ステークホルダーエンゲージメント(後述)を⾏ったりしているのか」(要するに、ちゃんと探しているのか)と疑われかねないということに留意しておく必要があるでしょう。
(4)⼈権DDにおいてステークホルダーエンゲージメントは必須
企業が⼈権を尊重し、⼈権侵害リスクを防ぐためには、従業員、顧客、取引先、地域社会、株主などのステークホルダー、ライツホルダーに直接ヒアリング、意思疎通、対話を⾏う「エンゲージメント」が⾮常に重要となります。また、企業がステークホルダー、ライツホルダーとコミュニケーションを取り、相互理解を深めていくことは、信頼関係の構築や従業員エンゲージメントの向上にも有効であり、中⻑期的には企業価値向上にも資する取り組みとなるでしょう。
ステークホルダーエンゲージメントが不⾜すると、企業はステークホルダーの思いや懸念、ニーズなどを把握することができず、⼈権侵害のリスクが⾼まります。従って、⼈権DDにおいては、⾃社の事業活動に絡む国内外のバリューチェーンにおける潜在的な⼈権リスクを把握するために、各国や業界の⼈権リスク情報の幅広い収集や専⾨的な知⾒の活⽤だけでなく、ステークホルダー、ライツホルダーとの直接の意思疎通や対話であるエンゲージメントが必須となることを、⼗分に認識しておく必要があるでしょう。
ただし、⼈権というセンシティブな内容を直接やり取りするステークホルダーエンゲージメントは、それが新たな⼈権侵害リスクを⽣み出す可能性や(例えば、発⾔内容が企業側に知られて、その後に⼈事上の不利益を被るなど)、特に海外のライツホルダーへのアクセスの難しさなどもあり、実⾏は決して容易ではありません。実施する際には、経験豊富な専⾨家のアレンジやアドバイスを受けて、実⾏計画や⼿法、ヒアリング内容などについて事前に⼊念に詰めておくことが肝要となります。
3.⼈権意識やステークホルダーエンゲージメントの不⾜による⼈権侵害と企業不正
上述の通り、ステークホルダーエンゲージメントは企業の⼈権尊重の取り組みにおいて最重要事項であり、このエンゲージメントの不⾜や不実⾏は、企業の⼈権意識が希薄なことの表れでもあります。そのような企業においては、⼈権リスクはもちろんのこと、企業不正のリスクも⾼まりやすくなります。企業における⼈権侵害と不正は、密接に関連していると考えられます。⼈権侵害は、ステークホルダーの⼈権軽視を通じて、企業倫理やコンプライアンス意識の低下や⽋如と深く結び付いており、それが不正⾏為の温床となる可能性があります。
また、⼈権侵害を隠蔽するために、不正が⾏われるケースも少なくありません。⼈権尊重の取り組み(特にステークホルダーエンゲージメント)が⾏われておらず、⼈権意識が希薄あるいは⽋如しているような企業は、⼈権侵害や企業不正が起こりやすい企業カルチャーといえるでしょう。実際に、これまで企業における⼈権意識の⽋如がもたらした企業不正事例は枚挙にいとまがありません。
【図表3 企業における⼈権意識の⽋如がもたらした不正事例】

(出所)各種ニュース、報道情報などより筆者作成
おわりに
今回は、企業における⼈権尊重の取り組みにスポットを当て、実効性のある取り組みに向けた重要な考慮事項について、企業価値を損なう企業不正との関係も含めて解説しました。サステナブルな企業価値向上に向けては、⼈的資本経営を通じて企業の重要な資本である⼈的資本に積極的に投資を⾏うとともに、その⼟台となる⼈権尊重の取り組みについても、単なるコストや作業と捉えず、積極的かつ継続的な活動により実効性を⾼め、企業のレジリエンスをしっかりとアピールしていくことが重要かつ有効と思われます。中でも、ステークホルダーエンゲージメントは、企業が⼈権侵害リスクを把握し、防⽌や是正を図るだけでなく、ステークホルダーとの信頼関係を構築するうえでも⾮常に重要な取り組みとなります。そして、それが企業不正リスクの防⽌につながるとともに、サステナブルな企業価値向上に資するものと考えます。本稿が少しでも皆様のご参考となれば幸いです。
※本記事は、三菱UFJ銀行『MUFG Biz Buddy』に寄稿した内容を元に再編集したものです
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