サステナブルな企業価値向上に向けた企業の環境・社会・ガバナンス(ESG)課題への取り組みは、今や不可⽋となっています。国連のグローバル・コンパクトや責任投資原則(PRI)、持続可能な開発⽬標(SDGs)やパリ協定の採択など、国際的なイニシアチブに加え、国内でもスチュワードシップ・コード(SSコード)やコーポレートガバナンス・コード(CGコード)の改訂による機関投資家と企業、双⽅に対するESG課題への積極的・能動的な取り組み要
請などを背景に、企業はESGをはじめとするサステナビリティ課題をリスクとして捉えるだけでなく、収益機会の観点からも積極的・能動的に取り組み、また機関投資家も投資対象企業の持続的成⻑を促進する建設的な対話(エンゲージメント)などを積極的に⾏っていくことが求められています。

「ビジネスと⼈権」と「⼈的資本経営」

ESGへの取り組みについては、当初、E(環境)関連の課題が中⼼でしたが、近年はこれに加えて、S(社会)関連、特に「ビジネスと⼈権」や「⼈的資本経営」が主要なテーマとして注⽬されています。この「ビジネスと⼈権」と「⼈的資本経営」は、いずれも「⼈」に絡む取り組みでありながら、それぞれ個別に議論されることが多いように思われます。これは、それぞれの取り組み部署や体制が異なったり、議論の対象となるステークホルダーの範囲が異なったりするなど、いくつか要因があると思われます。そして、ビジネスにおいて⼈権を尊重する「ビジネスと⼈権」と、⼈材の価値を最⼤限に引き出す「⼈的資本経営」は、実は両者とも「サステナブルな企業価値向上」を共通のテーマとする不可⽋な取り組みとして、密接に関係しています。これらの点について、関連する事項なども含めながら3回に分けて解説します。

1.⼈権への負の影響にフォーカスを当てる「ビジネスと⼈権」

ビジネスと⼈権は企業の事業やバリューチェーンにおける⼈権の尊重を求めるもので、2011年に策定された国連の「ビジネスと⼈権に関する指導原則(UNGPs)」が⼤きな契機となり、2015年に英国で成⽴した現代奴隷法、2022年公表の「コーポレート・サステナビリティ・デューデリジェンス指令案(CSDDD)」など、海外で法規制の整備が進んでいます。また国内でも、2020年に⽇本政府が「ビジネスと⼈権」に関する⾏動計画(2020-2025)を策定し、
2022年には「責任あるサプライチェーン等における⼈権尊重のためのガイドライン」を発表するなど、企業の⼈権尊重の取り組みを促す動きが続いています。さらに、2022年には⽶国で「ウイグル強制労働防⽌法(UFLPA)」が施⾏され、⽶国の輸⼊品に新疆ウイグル⾃治区が関与する場合、強制労働によって⽣産されたものでないことを証明しなければ、原則として輸⼊が禁⽌されるようになりました。その意味で、ビジネスと⼈権は、経済安全保障の観点から
も取り組みの重要性が増していると⾔えるでしょう。


これまで、企業による⼈権侵害事例は多く報道されていますが、中でも深刻な事例としてよく挙げられるのが、①1997年に発覚したNIKEの児童労働問題(NIKEが製造委託する東南アジアの⽣産⼯場で児童労働や⻑時間労働が発覚)、②2013年にバングラデシュで発⽣したラナプラザ崩壊事故(世界の⾐料品メーカーが世界最低⽔準の⼈件費を求めて⽣産委託していた縫製⼯場が倒壊し、死者・⾏⽅不明者・負傷者で4,000⼈以上の犠牲者が出たとされるファッション業界史上最悪の事故)、また、③2020年に発覚したマレーシアのゴム⼿袋世界的メーカー、トップグローブによる強制労働問題(強制労働問題で⽶国に禁輸措置がとられ、また⼯場でも5,000⼈超の新型コロナウイルスの集団感染が発⽣するなど、⼈権軽視が国際的に批判された)などです。


また、近年は、#MeToo運動やBLK(ブラック・ライヴズ・マター)、新型コロナウイルス感染拡⼤、ウクライナ情勢、ジャニーズ性加害問題など⼀般のニュースでも、⼈権尊重の重要性を意識させられるような出来事を⽬にする機会が増えています。企業に起因する問題に限らず、⼈権侵害に対する世の中の視線は厳しさを増しつつある印象です。

【図表1 ⼈権問題に絡む近年の主な出来事】

出所:各種ニュース、メディア関連情報より筆者作成

ビジネスと⼈権は、ビジネス活動における⼈権尊重を周知・徹底し、上記のような⼈権侵害事例の防⽌や軽減に努めていく取り組みです。UNGPsによると、企業は⾃社のみならずサプライチェーンを含め、⼈権への負の影響を直接引き起こすだけでなく、間接的に助⻑したり、関与したりしている場合にも対応が必要となります。具体的には「⼈権⽅針の策定」「⼈権デューデリジェンスの実施」「救済へのアクセス整備」の3つの取り組みが求められています。

【図表2 企業に求められる⼈権尊重の取り組み】

出所:国連「UNGPs」や「責任あるサプライチェーン等における⼈権尊重のためのガイドライン」より筆者作成

「⼈権⽅針の策定」には、①企業の経営トップが承認する、②社内外から専⾨的な助⾔を得る、③従業員、取引先等の関係者に対する⼈権配慮への期待を明記する、④⼀般公開され、全ての従業員、取引先、出資者、その他関係者に周知される、⑤企業全体の事業⽅針や⼿続きに反映される、の5つの要件を満たすことが必要となります。そのためにも、まずは、国連、国際労働機関(ILO)、経済協⼒開発機構(OECD)等の原則や指針等を参考にしつつ、⾃社の
海外拠点・主要サプライチェーンが所在する国や業界における⼈権侵害事例等について、⾮政府組織(NGO)・市⺠社会の発信情報や各種ニュースメディア情報、また外部専⾨家の情報などから広く収集します。それらを基に、従業員等のステークホルダーと⾃社が取り組むべき⼈権課題についてよく対話を⾏い、理解・共有していく必要があります。そして、企業の取締役はその対話の内容やビジネスと⼈権に取り組む意義・重要性などをしっかり理解したうえで、取締役会で⼈権⽅針を承認・決議し、⼀般公開、ステークホルダーへの周知、事業⽅針や⼿続きへの反映などを⾏っていく必要があります。
この⼈権⽅針に基づいて⼈権デューデリジェンス(⼈権DD)を実施し、⼈権への負の影響の防⽌や軽減に取り組んでいく、また⼈権侵害に苦しむステークホルダーを救済していくという流れになります。この⼀連のプロセスを通じて、当該企業が⼈権に配慮したビジネス活動を推進することが、社内外に周知徹底されていくこととなります。

2.⼈材価値の向上にフォーカスを当てる「⼈的資本経営」

さて、ビジネスと⼈権が、⼈権への負の影響という「マイナス⾯」を防⽌・軽減する取り組みである⼀⽅で、「⼈的資本経営」は⼈の能⼒・価値という「プラス⾯」を引き出す取り組みと⾔えます。⼈的資本経営は、⼈材を「資源」、すなわち「消費するもの」や「コスト」として捉えるのではなく、「資本」、すなわち「事業に不可⽋な資本」「投資して価値を上げる対象」と捉えて積極的に投資し、その価値を最⼤限に引き出すことで、中⻑期的な企業価値向上につなげていく取り組みです。具体的には、①従業員のスキル向上と知識習得の⽀援に向けたトレーニング・研修プログラムの実施、②従業員のモチベーション向上、⽣産性向上に向けた職場環境改善、従業員エンゲージメントの向上、③多様性を尊重し、さまざまなバックグラウンドの⼈材を活⽤するダイバーシティ&インクルージョンの推進、④適切な評価と報酬を提供し、従業員のモチベーションを⾼める明確な⽬標設定と評価制度の導⼊、などを推進していき
ます。
⼈的資本については、欧⽶でもその情報開⽰に関する規制や指針の策定が進んでいますが、⽇本政府も積極的な啓蒙に取り組んでおり、特に2020年9⽉の「⼈材版伊藤レポート」の公表を契機に⼈的資本の重要性が認識されるようになりました。当該レポートに向けた検討を主導した伊藤邦雄⼀橋⼤学名誉教授らが発起⼈となった「⼈的資本経営コンソーシアム」も設けられ、⼈的資本経営の実践に関する先進事例の共有や、企業間協⼒に向けた議論、効果的な情報開⽰の検討などが⾏われ、投資家との対話も実施されています。また、岸⽥内閣は、成⻑戦略として「新しい資本主義」を主要政策課題に掲げ、約30年ぶりとなる⾼⽔準の賃上げを持続的・構造的なものとするために「⼈への投資」の強化により、リスキリングや職務給の導⼊、労働移動の円滑化などの労働市場改⾰を進めています。

【図表3 ⼈的資本経営(変⾰の⽅向性)】

出所:「⼈的資本経営の実現に向けた検討会 報告書〜⼈材版伊藤レポート2.0〜」

3.企業価値向上に向けて共に重要な「ビジネスと⼈権」と「⼈的資本経営」

ところで、企業がこの⼈的資本経営によって従業員のモチベーションを⾼め、中⻑期的な企業価値向上につなげていこうとしている中、職場でハラスメントや過剰労働の問題が起きたり、低賃⾦に対する不満が出たりするなど、従業員の⼈権が配慮されていないような事例が起きているようでは、せっかくの⼈材の能⼒・価値を引き出す取り組みも台無しです。「⼈的資本経営は、企業における⼈権尊重があってこそ成り⽴つもの」と⾔えるでしょう。その意味で「ビジネスと⼈権」と「⼈的資本経営」は、サステナブルな企業価値向上を⽀える⾞の両輪として、リスクと機会の観点から共に取り組んで⾏くことが重要となります。特に⼈的資本経営の前提となり得るビジネスと⼈権は、企業にとって⽋かせない取り組みとなってきます。この点についてVol.2でも解説したいと思います。

※本記事は、三菱UFJ銀行『MUFG Biz Buddy』に寄稿した内容を元に再編集したものです

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