はじめに
デフレと低成長に見舞われた、バブル崩壊後の「失われた30年」を通じて、リーマン・ショック、自然災害、パンデミックなどに加え、度重なる不祥事など未曽有の危機に直面した我が国企業の多くは、「守り」を重視した利益確保やコストカット、内部留保などを優先する、いわゆる「ゼロリスク志向」と呼ばれる経営体質を帯びるようになったとされます。
この間、欧米を中心とする海外企業が長期的視点に立った「攻め」の経営(投資)判断を通じて持続的な企業価値向上を達成してきたことが、我が国企業の国際競争力の相対的低下をもたらしたとの指摘は、しばしば耳にするところです。
そうしたなか、近年、我が国でも、たとえば2022年8月の「伊藤レポート3.0」(経済産業省)において、「SX(サステナビリティ・トランスフォーメーション)」が提唱され、「企業が社会の持続可能性に資する長期的な価値提供を行うこと」が「自社の長期的かつ持続的に成長原資を生み出す力(稼ぐ力)の向上」につながるとの重要性が謳われるなど、企業に対して、持続的な企業価値向上に向けた取り組みを求める気運が高まりつつあります。今年(2024年)は、こうした企業価値向上に向けた官民双方の取り組みが加速することがほぼ確実視されており、多くの企業の経営層を、「リスクテイク」を厭わないチャレンジマインドに切り替えることになりそうです。
本稿では、積極的な「リスクテイク」を通じて自社の成長をドライブさせようとする経営層、あるいは「リスクテイク」にまだ慎重な経営層の双方を念頭に、SX時代の企業経営における「リスクと機会」の新たな関係性、企業のリスクマネジメントにおける「実務法務」の高まる重要性、そして法務・コンプライアンス部門が、企業価値向上――とくに非財務的価値の評価による企業価値向上――にとって不可欠な存在として、持つべき視点や取り組むべき課題について、それぞれ説明したいと思います。
なお、企業のリスクマネジメントに資する各種インテリジェンスの提供を主業とする当社は、企業の法務・コンプライアンス部門の方々の業務上のご苦労をよく知る立場にあり、ご担当者の日々のご尽力に心から敬意を表していることを併せて申し述べておきたいと思います。
用語の整理
本稿は、SX時代における企業の新たな「実務法務」のあり方を主題としています。ここでは実務法務について、契約書作成の要諦、法律・法令等の解釈、あるいは紛争解決などの狭義の「実務法務」の理解に代えて、「法律的知見を踏まえたインテリジェンスを通じて、企業のリスクマネジメント促進と非財務的価値向上を図ること」と捉えたいと思います。その上で、企業の法務・コンプライアンス部門に携わる方々が、その法務実務を通じて、いかに正しく各般のリスクに向き合い、また企業価値の向上を図っていくべきか、その指針を提示することを狙いとしています。「企業価値」とは、売上と利益、資産・資本をめぐる収益性評価(ROI/ROE/ROA)などの財務価値/株式価値ではなく、近年の機関投資家が注目し、また企業にとっても重要な指針となる非財務価値を指すものとし、そうした価値向上を通じてはじめて可能となる企業の「サステナブルな成長」のあり方を考えてみたいと思います。以下では、持続的に収益をもたらすビジネスモデルや人的資本にもとづく“稼ぐ力”と表裏一体の関係にある、企業の健全かつ持続可能な成長を支える経営体制(ガバナンス、コンプライアンス、セキュリティなどの)はどうあるべきか、その具体的な施策についてご説明します。
実務法務の新たな視点:コストから投資へ
企業において、「実務法務」を担当するのが、法務・コンプライアンス部門です。従来、この部門は、企業内部において「コストセンター」と認識される傾向がありました。それは一定程度、実態に即した面もあったといえますが、ときには「収益を生まないばかりか、迅速な事業推進の障害となっている」とされ、ネガティブなイメージで捉えられてきた印象すらあります。
こうした意識の変革を図るため、企業法務の専門家や当社のような周辺業界関係者などは、SX時代の新たな実務法務のあり方について啓蒙活動を行う際、「リスクマネジメントはコストではなく投資である」との表現を用いることがあります。
「コストではなく投資」という発想を端的に整理すると、およそ次のような内容となります。すなわち、リスクを回避/低減/移転することにより、コントロールすることがリスクマネジメントであり、このリスクマネジメントに資本を投じることで、企業の将来的なダウンサイドリスクを減少させた分が、グロースサイドにプラスとして計上される(マイナス要因を減らした分がプラスになる)というものです(右図参照)。

たとえば、先々に発生する可能性がある重大リスクを想定した、各種の設備投資や対策・対応、あるいは調査・分析を行うなど、重大インシデントを回避するための施策に資金を投下することが、すなわち投資であるという発想です。
しかし、顕在化していない(目に見えない)リスクを定量的に測定する「物差し」がない以上、上記の説明は、経営層に対して、やや響きにくい面があることもたしかです。
企業の経営層にとって、人的資本を含む様々なアセットを活用し、事業の成長および企業価値向上(収益および事業規模の拡大)を達成することは至上命題であり、それはひいては社会的貢献にもつながります。その観点から、健全な企業運営を維持するために、法令順守はもとより、広義のコンプライアンス対応や各種のリスクマネジメントに取り組むことは理にかなっているといえます。
しかし、「リスク」への視点を重視しすぎると、成長への「機会」が損なわれることも確かであり、リターンを定量的に把握しにくいリスクマネジメントに対してどの程度の資本を投下すべきか、については判断が難しい面があります。したがって、SX時代の新たな実務法務には、このような「リスク対応 = 機会損失」という従来の二元論を越えた、新たな視点からの機能強化が求められることになります。
法務・コンプライアンス部門に期待される「機会創出」機能
企業において、法務・コンプライアンス部門は、日々の事業を遂行する上で重要な機能を果たしています。その業務は、企業が各種の法的規制やリスクに適切に対処し、訴訟や紛争を含め、事業上の法的な問題を解決するために不可欠です。従来、同部門に期待されてきた機能は、およそ以下の2点に整理されます。
第1に、法的リスクの管理と予防です。企業活動は、さまざまな法規制に準拠することが求められますが、その内容は、業種や進出する国・地域によって様々であり、域外適用のケースなども含め、多面的な検討が求められます。民法、商法、会社法、税法、労働法、知的財産法、独占禁止法等々のほか、各業種に特有の業法など、企業が活動する上で準拠すべき法律は極めて多岐にわたります。法務・コンプライアンス部門には、これらの法的リスクを適切に把握し、予防策を講じることで、企業が法的トラブルに巻き込まれるリスクを最小限に抑えることが求められます。また、事業上の紛争や訴訟が発生した場合においては、事実関係の把握から、相手方の意図の理解、その後の戦略を踏まえた法的論理思考を駆使した各種の対策を行うことも同部門の重要な機能です。
第2に、他の部門とも連携しつつ、企業の評判や信頼性を守る機能です。法的トラブルや不正行為は、企業の信頼性や価値そのものを毀損する可能性があり、インシデント発生後の対応の良し悪しは、損害がさらに拡大するか、あるいは損害を最小限に抑えられるかの大きな分かれ道となります。また、広義のコンプライアンス対応として、社会的倫理への順応や各種の社会的課題(環境および人権への負の要素を低減するための取り組み)への対応姿勢も、自社ビジネスにおけるリスクマネジメントの不可欠な重要となりつつあります。
以上のように、企業の法務・コンプライアンス部門は、事業活動にとって重要な機能を果たし、その活動を通じて企業の健全性や持続可能性確保のための重要な一端を担っていると理解されます。しかしSX時代において、企業の法務・コンプライアンス部門には、こうした従来の機能に加えて、企業価値向上に向けた「機会(Opportunity)の創出」が期待されているということができます。以下では、その具体的な可能性について考えてみたいと思います。
企業価値向上にむけた実務法務の最新課題
M&Aに関する法務実務、危機管理の法務実務、AI活用に関する法務実務、等々、近年、企業が抱える実務法務の課題は多方面にわたりますが、このうち、これからの実務法務が大いに活躍できる分野として、今回は「ビジネスと人権」および「経済安全保障」の2つの分野を挙げたいと思います。
1)ビジネスと人権
現在、欧州を中心として、企業による「人権デューデリジェンス」の義務化が進む中、日本でも国連の「ビジネスと人権に関する指導原則 」に基づき、「ビジネスと人権に関する行動計画[1]」(2020年)、「責任あるサプライチェーン等における人権尊重のためのガイドライン[2]」(2022年)が策定され、グローバル企業を中心に人権デューデリジェンスへの取り組みが活発化してきています。
人権デューデリジェンスにあたり、企業は、自社が関係するすべての国・地域、セクター、製品(商品)、サプライチェーンの地域特性などを把握し、「人権への負の影響」を切り口としたリスクアセスメントを行い、「人権への負の影響」の度合いが高い順に対応方針を定め、該当するサプライチェーンとの対話を行っていくことが求められます。
人権デューデリジェンスの実務では、①自社における人権方針を策定し、デューデリジェンスの実施(②人権リスク把握-リスク特定・評価-③リスク防止・是正措置-④モニタリング-⑤情報公開)、⑥救済措置(グリーバンスメカニズム)の確保、というプロセスを回していくことになります(下の図を参照)。
企業によっては、人権デューデリジェンスの実施に際し、サステナビリティ部門や調達部門が主導的な立場を担う場合もありますが、ここでは法務・コンプライアンス部門にとっての重要な役割を述べたいと思います。
法務・コンプライアンス部門は、自社にとってのリスクのみならず、人権への負の影響を最大限低減させるために、国連の指導原則や人権デューデリジェンスが義務化された欧州諸国の法律等の趣旨・内容を理解し、サプライチェーンのインフラ環境や地域特性、同地域の歴史や宗教、政治・経済動向や腐敗度、

あるいは紛争やテロのリスクなども鑑みて、自社の人権への対応方針について経営陣へ実務的な助言を行う必要があります。この場合、単なる法律の解釈のみではなく、ビジネス上のリスク視点を持つことが重要です。とくに自社の経営戦略や業界における立ち位置(自社のレピュテーションも含む)もよく理解し、経営判断に資する適切なインテリジェンスを提供するという視点が求められます。
また、今後起こり得るリスクとそのインパクトも想定し、インシデント発生時に生じる説明責任の可能性も考慮して、実務法務としては、「ビジネスと人権」課題への取り組みや、人権デューデリジェンスのプロセスを規則化(ルール化)して、適切に管理・運用することが肝要といえます。このルール管理については、コーポレートガバナンス・コードの内容などと異なる実態を指摘され、“ウォッシング”とのバッシングを受けないようにすることが大変重要です。
また、こうした自社の取り組みが投資家をはじめとした各ステークホルダー、および一般世論にも周知されないと、社会的評価にもつながりません。この点は、広報/サステナビリティ部門との連携が必要となるでしょう。ここで、「ビジネスと人権」という社会課題への取り組み、ひいては当該分野における自社の“リスク”となり得る課題への対応を「機会」につなげる手段として、「統合報告書」や「CSR報告書」もしくは「人権報告書」を活用して、自社の取り組みを最大限PRもすることが効果的です。とくに、機関投資家の目線で評価されるよう、それらの取り組みを効果的にアピールし、市場からの評価を向上させることは、株式価値の向上にも直結します。
日本企業は、このような人権への負の要素を低減させる取り組みを“当たり前のこと”と考える“奥ゆかしさ”もあって、アピールが苦手なうえに、いざ実行すれば「商業宣伝」的になる恐れがあることから、消極的になる面も十分考えられます。しかし、このような取り組みは積極的に公表しない限り、企業の無形資産価値向上にはつながりません。
現在、日本にPBRが1倍前後または1倍以下の企業が数多く存在するのは、市場から純資産価値しか評価されておらず、無形資産価値が適切に評価されていないからといえます。もちろん、無形資産の価値においては、ビジネスモデルやブランディング、人的資本、研究開発などへの投資など“将来の稼ぎ出す力”につながる要素が重要となりますが、サステナブルな経営を意識した場合、こうした無形資産への投資が、しかるべきリスク対応を含んだものでない限り、適切に評価されることはないでしょう。
また、機関投資家との継続的な対話は、企業の事業戦略におけるサステナブルな取り組みについて正当な評価を得るためにも大変重要となります。
[1] https://www.mofa.go.jp/files/100104121.pdf
[2] https://www.meti.go.jp/press/2022/09/20220913003/20220913003-a.pdf
2)経済安全保障
前項のビジネスと人権への対応と同様に、近年、日本企業は、地政学や経済安全保障上のリスクを念頭に、サプライチェーンの「整備」を検討せざるを得ない状況に迫られています。
ビジネスと人権が、「人権に配慮した対話と是正」を重視する主題であるのに対し、経済安全保障は、第一義的には「国家安全保障上のリスクの排除」を重視する主題であり、その問題関心は位相を異にしますが、個々の企業にとっては、“サプライチェーン管理”あるい“情報セキュリティ”などの文脈で、「わが身の問題」として理解するべき経営課題といえます。
たとえば、企業が自社のビジネス活動を展開する中で、万が一、国際的な制裁対象となるなど安全保障上の課題がある国や地域に対し、自国の国防や国益に資する先端技術や情報が漏洩した場合、そのことが、そうした対象への利益供与とみなされかねず、国内法のみならず外国法の域外適用に基づく制裁が科せられる可能性も考えられます。
そうした中、経済安全保障上のリスクを回避するためには、自社の重要なサプライチェーン上に位置する国や地域について、歴史や宗教、政治体制や法律、経済動向や腐敗度、インフラ整備状況やセキュリティ上の脆弱性、またはテロや紛争の可能性などを適切に把握し、要すれば、サプライチェーンを変更あるいは分散させる必要がある、との考えが広まりつつあります。
もっとも、こうした考えには一理あるものの、高度の経済相互依存が進んだ現在のグローバル経済の実態を鑑みれば、特定国に根差したサプライチェーンを、早急にデカップリングすることは、契約上のリスクも相応に高く、また特定国の対応によっては、直接または間接的な制裁対象となる可能性も否定できず、サステナブルな成長の機会の妨げにもつながりかねない点には留意が必要です。
いうまでもなく、ビジネス上の経済安全保障リスクマネジメントにおいて、とくにサプライチェーンの安定性やセキュリティは、重要な経営課題の一つとなります。そこで、企業の法務・コンプライアンス部門には、まさに、常時アップデートされた地政学リスク情報および国際的な法的知見を踏まえたインテリジェンスが求められることとなります。
「地政学リスク」時代にあって、企業の実務法務部門は、経営企画部門や経済安全保障担当部門といった個々のインテリジェンス機能を有する部門と連携しつつ、経営陣へ的確な助言を行うためのインテリジェンス機能の中枢的存在である必要があります。言いかえれば、現代の実務法務に求められるのは、経済安全保障上のリスクとグローバリゼーションが生む経済的利益の「均衡点」を見出すことであり、そのための多面的な情報収集と分析が何より求められていることになります。
以下、参考まで、経済安全保障上の対応にあたり、法務部門が経営企画部門や経済安全保障担当部門などと連携する際の作業事例を示します。
1. サプライチェーン分析
サプライチェーン上の国や地域ごとの歴史や宗教、政治体制や法律、経済動向や腐敗度、インフラ整備状況やセキュリティ上の脆弱性、テロや紛争の可能性、あるいは環境や人権課題などについて多面的に情報を収集・分析し、リスク評価を行う。また、リスク評価だけではなく、リスク回避の方法にも着目し、サプライチェーン再編も念頭に、他の国や地域の情勢、または競合他社の状況に関しても情報収集を進める。
2. リスクマネジメント戦略の策定
上記の分析結果を基に、重要サプライヤーとの関係性強化、代替サプライヤーの開拓を含むサプライチェーン再編の戦略立案を行う。※ここでは、「リスク」を「機会」に変えるための思考が必要であるとともに、経営企画、調達部門との連携が重要となる。
3. 経営判断への貢献
リスク評価結果を経営陣に報告するだけではなく、上記で策定した戦略案を踏まえて、経済安全保障上のリスクと経済的利益の「均衡点」を見出すための「経営会議」に参加し、経営者の意思決定に積極的に貢献する。
4. 法的対応の準備
経営判断に基づき、サプライチェーン再編を行う場合の契約上のリスク、または再編を行わない場合に生じる制裁対象への利益供与や情報漏洩などのリスクに対して、法的対応指針を策定し、想定しうるインシデント発生に備える。
5. 社内での教育とトレーニング
社内の関係者に対して、地政学的リスクや経済安全保障の問題に関する教育とトレーニングを実施し、課題認識の社内共有や見識の向上を図る。
上記の作業に共通して求められるのが、法務知識やリスクの見識+インテリジェンスを備えた「実務法務」であり、まさに地政学や経済安全保障のリスクは、実務法務と経営者の議論(リスクと経済活動の均衡点の模索)によって、“新たな機会”へと転換されるきっかけとなる可能性があります。
また、このようなサプライチェーン再編、もしくは経営方針の変更について、各ステークホルダーに対して適切な説明が行えるよう、「根拠とエビデンス」を有しておくことが肝要であり、こうした大局的な思考をもつ実務法務の役割は極めて大きいといえるでしょう。
実務法務に求められる経営マインド
既述のとおり、現在の日本企業の株式価値を見ると、無形資産の価値が十分評価されていない傾向が窺えます。そしてこれらの無形資産の価値向上が、今後の日本市場にとって重要な課題となることはいうまでもありません。
こうした新たな状況において、実務法務としては、各種の法的規制や、訴訟や紛争などの事業上の法的課題への対処のみならず、この「無形資産の価値向上」を念頭に、適切なガバナンスの強化、および事業戦略におけるサステナブルな取組み(各般リスクや社会的責任への適切な対応)を推進し、さらにその取組み状況を、ステークホルダーや市場に効果的にアピールすることが求められます。そして、この取り組みを念頭においた日々の活動を行うためには、経営に参画する意識の醸成が何より肝要となります。経営への参画は、役員への就任に加えて、取締役会の事務局として機能強化を図ることでも一定程度、達成されることとなります。
当社の知る限り、法務部門が取締役会の事務局を担っている企業においては、そのメンバー(とくに法務部門のトップ)が経営の全体像を把握していることも多く、様々なビジネスシーンでのリスクと経営判断の見極めが的確かつ迅速に行われている印象があります。
最後になりますが、これからの実務法務が日本企業の経営において、永続的な企業価値向上につながる重要な働きをすることを大いに期待するとともに、法務・コンプライアンス部門の方々のさらなるご活躍を祈念いたします。